日記帳

No.183

雑に書き込む日記帳です。

 今日の雑談VCで話してた「誰かの幸せを願うこととは」

 基本的に、私は
①幸せの前提が同じとは限らない
②本当に幸せでなければならないのか
③幸せを願うことには責任が伴う
④人間である限り誰もが幸せな世界は無い
と言った思想を持ち合わせています。
 結論だけ先に言えば、『人間同士、互いを知りながら折り合いをつけ、長い年月をかけて培って象られたものが、幸せだったら良いね』くらいのものなのではないかと。
 そりゃ今幸せなら良いよ。でも幸せじゃないと思うから誰かの幸せを願うのでしょう。

①幸せの前提が同じとは限らない
 別個体である以上、経験してきたものは違います。一般論の幸せは共有出来ても、真にその人にとっての幸せを理解することは難しいのではないでしょうか。
 幸せの前提に差があるほど、解釈違いの幸せはエゴの押し付けになりかねない。避ける為には違いを知る努力を重ねること、折り合いをつけることなのではないでしょうか。

②本当に幸せでなければならないのか
 ①の派生です。幸せであることは善に属することになりがちです。社会的にも人道的にも、好ましいことでしょう。
 ですが、その幸せが大衆にとっては悪なるものである可能性はあります。もしくは、幸せとされるものが個人にとってはそうでないこともあります。
 後者は想像しづらいと思うので例を挙げると、サバイバーズギルドの場合。
「奇跡的に生き残ったのだから幸せになって」
と望まれても、本人にとっては
「私だけ生き残ってしまった。生きなきゃ、笑わなきゃ」
と幸せであることが罰や義務の類と化してしまうことがあります。
 そしてそれらは表出化が難しい。本人が苦悩する姿を見せてはいけないと感じるのもありますが、周囲が「そんなことないよ」と否定してしまうから。不理解を感じれば、本人はますます殻に篭るのではないでしょうか。

③幸せを願うことには責任が伴う
 自分のことであれ、他者のことであれ、幸せを願うだけになりがちです。言うは易く行うは難しなんてありますが、他者から幸せを願われる側の立場は慮られているのでしょうか。
 幸せになれない事情や前提があるならば、その願いは重さになり得ませんか。
 幸せになることを望まない/望めない人間であれば、受け止めるのも苦になりませんか。
 願う以前に、相手の前提を理解出来ているのでしょうか。その上で願いっぱなしにせず、手探りにでも行動出来ているのでしょうか。
 幸せを願うことは一般的には善なることです。故に無碍にできず受け止めてしまう相手も多いでしょう。幸せを願う相手に何が出来るのかを問うことも時に必要なのではないでしょうか。

④人間である限り誰もが幸せな世界は無い
 人間が幸せを知覚するのはどんなときでしょう。私は『満足するとき』なのだと思います。裏を返せば『不足を知った後に、それを満たされたとき』。つまり、不足を克服した時です。
 ここで重視するのが、自己補填が可能な不足とそうでない不足、2種類に分けられること。
 自己補填が可能な不足とは、空腹など他者が無関係な内に解消できる不足。ご飯食べれば良いだけですからね。
 自己補填不可能な不足とは、隣人よりご飯が貧しいと言った他者の存在に由来した不足。嫉妬、憐憫、劣等感などを克服するには、それを補填したり覆すことが必要になります。
 人間は社会生動物。他者と無関係に生きることは限りなく難しく、関係すれば必ず衝突します。有り体に言えば優劣の概念が生じます。
 ですがこれ自体は悪ではありません。他者との比較があるからより良くなろうと努力し、成長し、克服していくのですから。
 ただどうしてもその過程で差が生じる。不足を知り、これを満たしていく。手法は様々で、必ずしも善行と限りません。無自覚に蹴落とし貶める者すらいるのが現実です。カースト心理に繋がる性質でもあります。
 他者の幸せを心から願えるのは人間の美徳ですが、“虐げて良い理由がある者”にはどこまでも残虐になれるのも人間なのだと思います。

 人間嫌いかと言われそうな内容になってますが、これでも希望を持った言い分のつもりです。
 願いはきっと本物ですから。
 私だって周囲にいる人や探索者たちに幸せでいて欲しい、なって欲しいと思います。思うから、何が出来るかは考え続けたいですね。
 合ってるか間違ってるかわからないし、途中経過を見れるのもいつになることやら。それでも向き合い続ければ、知る努力を放棄しなければ、或いは。
 何もしなければ、幸せを願う相手に与える影響は良くて0ですから。間違ったままにならないように対話したいんです。
畳む

#日常 #思考整理